紫電二一型 〜旧日本海軍最後の名機〜 (1)

 みなさんお久しぶりです……!!このところずっと試験やレポートや、他にもいろいろ用事が積み重なりなかなか時間に恵まれなかったが、ようやく一段落しそうな気配が見えてきたので久々に筆を取ってみようと思う。最初の二本を投稿してからもう1ヶ月が経ってしまい、早くも存続が危ぶまれるような状況だが、気長に見守っていただければ幸いである。

 少しづつ、今の自分の核になっている飛行機についても話していこうかと考えている。言うまでもなく(?)僕は飛行機が大好きであるが、かといって微に入り細に入り正確無比な情報を持っているわけではない。知らないことだって多いし、間違った知識を持っていることもある。読み手によっては表層的なことだけしか知らないんだなと思われることもあるだろう。自分の好きなものだからこそいい加減なことは書きたくないとも思う。そんなわけで実は、飛行機について書くことを躊躇する気落ちもある。しかしながらやはり語りたいものの筆頭ではあるし、話を聞きたいと言ってくれる友人も増えた。ならばやはり書かないわけにはいかないだろう……と、いうことで、これからいろいろな飛行機について話していこうと思う(断っておくがそんなにマニアックな飛行機については詳しくない)。

 最初に取り上げる機体は、これを措いて他にはないであろう。

 

 旧日本海軍 局地戦闘機 川西 N1K2-J 紫電二一型 「紫電改

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紫電二一型 (愛媛県南宇和郡愛南町) 筆者撮影

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 見ての通り、レシプロ機である。ジェット推進でなく、レシプロエンジンによってプロペラを回転させ推進力を得る、「古い飛行機」である。もっとも、全てにおいてプロペラ推進よりジェット推進がまさっているわけではなく、したがって「プロペラ機=古い飛行機」というわけではないのだが。しかしことこの機体に関しては古い飛行機である。第二次世界大戦中、旧日本海軍が運用していた戦闘機である。

 

 余談だが、旧日本軍に「空軍」はない。「軍」は大日本帝国海軍大日本帝国陸軍の2つであり、それぞれが海軍航空隊・陸軍航空隊として別個に航空機部隊を運用していた。したがって陸海軍では運用機種も異なっており、それぞれの航空隊特有の役割を持った機種も運用されていた。今回取り上げる「紫電二一型」は海軍が運用する戦闘機であった。

 

この機体は1944年に生産・配備が開始され、主に防空任務に使用された局地戦闘機である。「紫電二一型」が正式名称であるが、「紫電改」という通称の方が有名かもしれない。一般に第二次大戦の日本軍機で有名なのは零戦、ついで隼、といったところだと思うが、この紫電改も興味ある人たちにとってはおそらく同等に有名な機体であろう。紫電改を題材にした漫画や映画もあり、ゲームにも登場している(らしい)。一度、渥美清が出てくる紫電改の映画を観たことがあるが、寅さんが戦闘機に乗っているようでものすごく違和感を感じてしまった……。

 ついでながら、「局地戦闘機」とは、地上の航空基地から発進して戦う戦闘機のことであり、それ以外にもう一つ「艦上戦闘機」という種別もある。艦上戦闘機航空母艦から発進することを考えて作られた戦闘機であり、空母に着艦するための装置がついていたり空母のエレベーターに収めるためのサイズ調整がなされていたりする。艦上戦闘機は地上の基地から発進することもでき、事実そのように使われてもいたが、局地戦闘機は空母での運用はできない。航空母艦を所有しているのは海軍のみであるから、艦上戦闘機が配備されるのは海軍だけであり、陸軍の機体は全て局地であった。ちなみに日本海軍の艦上戦闘機の代表例が零式艦上戦闘機、いわゆる零戦である。

 

 1944年と配備が遅いことからも分かるように、紫電改が運用された期間は短い。それにも関わらず、この機は名機として戦中・戦後に名を馳せた。実際のところどの程度の性能であったのかについては様々な議論があるが、大戦中の日本機の中では間違いなく最高性能の部類に入る。その性能はある面では当時の米軍機を凌ぐこともあったという。詳しい機体・性能の話は次稿に回そうと思うが、戦後米軍により行われた性能試験では、米軍使用の高性能な燃料を使用したところ米軍機が軒並みついていけなくなるほどの高速を出したという逸話もある。武装を取り外した上での試験であったため戦闘時とは多少条件が違うが、この機体の優秀さの一端の現れであると言っていいだろう。

 

 戦争末期に登場した紫電改は、日本本土の各海軍航空隊基地に配備され主に防空任務に当たった。相手はかの有名なB-29や、レシプロ機の最高傑作と言われる戦闘機P-51、戦争中盤以降の米艦上戦闘機の主力であったF6Fなどであった。紫電改の高性能は、当時すでに陳腐化していた零戦を舐めきった米軍パイロットたちを驚かせ、慌てふためかせたという。高空性能が悪いのが弱点でB-29やP-51に高空を飛行されると分が悪かったが、それでも紫電改部隊はそれ以前よりも格段に大きな戦果を挙げていった。

 特にこの機体が勇名を馳せるきっかけを作ったのが第343海軍航空隊(二代目)、通称・剣部隊である。敗色濃厚となった1944年末、日本軍航空隊の劣勢を跳ね返し日本上空の制空権を奪回するべく横須賀基地で編成されたのがこの部隊だった。創設者・司令官は真珠湾作戦時の航空参謀であり海軍航空隊における第一人者的立ち位置にあった源田実大佐であり、パイロットは百戦錬磨の精鋭たちを多く集め、使用機は最新鋭機である紫電改と、名実ともに日本最強の戦闘機隊であった。創設から1ヶ月後には愛媛県の松山基地に移動し、本土爆撃のため飛来する米軍機の迎撃にあたった。そして1945年3月19日、米機動部隊の来襲を受けて出動した343空は、紫電7機、紫電改56機で米航空部隊を迎撃する。敵はF6F、F4U(戦闘機)、SB2C(爆撃機)合わせて160機からなる大編隊だったが、このうち58機を撃墜し、343空側の喪失は16機という大戦果をあげた。この撃墜数については米側の資料と数が合わず、戦果誤認の可能性が拭えないものの、この活躍により敵味方問わず名を知られることとなった。そしてこれ以降の343空の奮戦と共に、紫電改もその名を広く知られるようになり、「遅すぎた零戦の後継機」とまで言われるようになった。

 その後も剣部隊は紫電改を駆って寡兵ながらも米軍機に立ち向かい戦果を上げていくが、やがて圧倒的物量の前にじりじりと弱体化していき、ついに終戦を迎えることとなる。

 

 再び余談ながら、この源田実氏は戦後も航空自衛隊の設立・育成に尽力され、「航空自衛隊の生みの親」と称されることもある。第3代航空幕僚長を勤められ、また空自のアクロバットチーム「ブルーインパルス」の生みの親としても知られる。源田氏は海軍のパイロット出身であり、戦前には特殊編隊飛行の名でアクロバットチームを率い、「源田サーカス」として親しまれたという経歴も持つため、ブルーインパルスの設立にもうなずけるところがある。退官後は国会議員にも就任された。

 祖父の蔵書の中に源田氏の「真珠湾作戦回顧録」という本があった。氏が立案された真珠安作戦を自ら振り返り、どのような準備がなされたのか、どこを反省すべきか、また評価すべきは何か、ということを明快な語り口で語られており、中学時代に非常に興味深く読んだことを覚えている。その後祖父から譲り受けしばらく持っていたが、中学の寮から実家に持って帰って以来どこに行ったかわからなくなってしまった。なぜか知らないがその本には源田氏の直筆サインが入っており、丁寧にも日付と祖父の名前まで書かれていたように思う。その当時はおそらく氏は国会議員を勤めておられた頃だと思うが、なぜそんな人に直筆サインをいただけたのか、そもそもどうやって祖父は彼に会ったのか…など、自分の祖父が何者だったのかと当時薄気味悪く思っていた。今思えば大変貴重な本であり、無くしてしまったとしたら残念なことだ。この夏もし帰省できたら家じゅうひっくり返して探してみようと思う。でもそもそも帰省できるのかなあ……

 

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 紫電改に話を戻そう。紫電改はそもそも生産数が少なく、現存しているのは世界に4機しかない。そのうち国内にあるのはただ1機で、上にあげた写真はその機体のものである。愛媛県南宇和郡愛南町という風光明媚な土地に南レク馬瀬山頂公園という公園があり、その一角に紫電改展示館というのがある。そこに展示されているのがこの機体だ。この機体、実は愛媛県久良湾の海中に沈んでいるのをダイバーによって発見され、戦後34年経って海中から引き揚げられたものである。引き上げには前述の源田実氏も立ち会われたそうだ。引き上げ後、たくさんついていたフジツボの除去や塗装の塗り直しなど最小限の修理がなされたほかは海の底で眠っていたままの姿を留めている。プロペラが大きく後方に向かって湾曲しているが、これは海に墜落した際の衝撃で曲がったもののようだ。

 343海軍航空隊の基地が愛媛県松山にあったことは前に書いたが、この紫電改もやはり343空の所属機であろうと思われる。しかしこの機体が撃墜されたのはその後、343空が九州の大村基地に移動してからのようだ。パイロットが誰だったのか正確にはわかっていないが、おそらく1945年7月24日の空戦で未帰還となった6名のうちのどなたかだろうと言われている。

 僕は幼稚園から小学校3年まで、愛媛県宇和島市に住んでいたことがあり、その時にたまたま家族でこの紫電改を見に行ったことがあった。その頃の僕はごく普通の少年であり、乗り物はぼんやりと好きかなあといった程度だった。飛行機よりむしろ車のほうが好きだったと思う。この日、この紫電改を見た僕はまだ小さく、この飛行機から学ぶべきものを十分に感じ取れるわけではなかった。その代わり機体をよく観察することはでき、「なんかこの飛行機ボロボロだなあ、ちゃんと直したやつ見たいなあ」と思ったのを覚えている。それでも飛行機すげーかっこいいな、とは思い、綺麗な姿を見られるかもしれないとも思って模型好きの父親に勧められるがままにプラモデルを買って帰った。そのプラモデルを作るうちにいよいよ飛行機が好きになってしまい、それが現在に至るまでずっと続いているようなものだ。あの時そこで紫電改を見たから今の自分があるのであって、もし見ていなかったら違う道に進んでいたかもしれない。まあそんなわけで、自分にとっては飛行機への道を開いてくれた思い入れの強い機体であり、最初に取り上げるのはこれを措いて他にないと言ったのはそういうわけである。

 

 紫電二一型(2)の記事で、より詳しく機体を見ていこうと思う。ここで一旦筆を置こう。

(写真は全て筆者撮影)