紫電二一型 〜旧日本海軍最後の名機〜 (2)

 前回紫電改についての記事を書いてからゆうに半年以上過ぎてしまった。執筆意欲というのはなかなか続かないものだなと実感している。どうやら僕は、意欲が湧いてくる時はとても短期的に猛烈に湧いてくるが、一度火が消えてしまうとかなり長期間そのままになるタイプの人間らしい。飽きる、というほどモチベーションが潰えるわけでもないのだが。

 

 以前友人に、お前の記事は1つが長すぎると言われた。自分では、興が乗った時に一気に書き上げてしまうので長いと感じることはなかったのだが、見直してみると確かに長いかもしれない。段落1つも長いような気もする。これからはもう少し短いものを、たくさん書くようにしてみたい。そのほうが更新頻度も上がりそうだ、知らんけど。

 

 さて、(1)で紫電改やそれにまつわる僕自身の話を2、3披露したが、この項からは実際の性能・特徴を紹介していきたいと思う。

 

 しかしその前に、もう一つ余談を挟もう。記事(1)で触れた源田実氏の著作「真珠湾作戦回顧録」であるが、昨年一度帰省した際に無事見つけることができた。文字通り自分の荷物をひっくり返して探すことになったが。

 そもそもの計画立案から、水深の浅い真珠湾内での航空機からの雷撃(魚雷による攻撃)の困難さを克服した経緯に至るまで、興味深い話がたくさん書かれている。今となっては多少の資料的価値すらあるかもしれない、と思ったが、同じものがAmazonで17円(中古)で売られていた。さすがに安すぎるのではなかろうか……。

 氏のサインもちゃんと入っていた。祖父の名前は書かれておらず、こちらは僕の勘違いであったようだ。写真を載せて自慢(?)しておく。

 

真珠湾作戦回顧録 (文春文庫)
 

 

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祖父から譲り受けた「真珠湾作戦回顧録」の表紙裏、源田実氏のサイン

  閑話休題

 まずは、紫電改の開発経緯をざっと見ていこう。

 当時、日本における軍用機の開発プロジェクトには複数の進め方が存在した。その一つが競争試作である。これは、顧客となる陸軍または海軍が各メーカーに要求性能を提示し、それを満たすべく各メーカーが試作開発を行ったのち軍がそれぞれの機体を試験し、結果がもっとも良いものが制式採用されるというもので、コンペのようなものである。例えば零戦などはこの形式で開発された(もっとも、あまりの要求性能の高さに他社が試作開発を中途辞退し、実質的に三菱重工1社による開発となったが)。

 また、これとは逆に、メーカーが軍に機体の計画を売り込み、軍が承認して試作発注をするケースもあった。紫電改はこの2つ目のケースに該当する。しかし、紫電改の計画を海軍に売り込んだメーカーは一風変わっていた。このメーカー、川西航空機は、それまで水上機飛行艇のみを開発してきており、陸上機の開発経験がなかったのである。

 

 余談ながら、この川西航空機からは九七式飛行艇二式飛行艇二式大艇)など、大戦中の傑作飛行艇水上機の数々が生み出された。特に二式飛行艇は当時世界最高の性能を誇ったとも言われる。川西航空機は戦後、新明和工業となり、海上自衛隊飛行艇PS-1/US-1、US-2を開発した。US-2は海自の現役救難飛行艇として活躍中である。これらの機体の主任設計者として活躍されたのが菊原静男氏であり、彼は紫電改の主任設計者でもある。

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川西航空機 二式飛行艇

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新明和工業 PS-1 (筆者撮影、岐阜かかみがはら航空宇宙博物館)

 さて、このような川西航空機であるが、日中戦争を契機として陸上機の開発中心にシフトしていく航空機市場において、水上機のみの開発を続けていては立ち行かなくなると予測し陸上機開発に乗り出そうとしていた。その嚆矢として提案されたのが、当時自社において開発中であった十五試水上戦闘機(のちに水上戦闘機「強風」として制式採用)を陸上機に改造し、局地戦闘機とする案であった。いきなり未経験の陸上機を一から開発するよりも、慣れた水上機を陸上機に改造するほうが短期間で容易に開発できるとの考慮によるものである。

 この提案は海軍に受け入れられ、「一号局地戦闘機」(N1K1-J)として、あくまで次の正式な後継戦闘機が開発されるまでのつなぎとしてではあるが、臨時措置的に川西航空機に対して試作発注がなされた。1942年4月15日のことである。当時、零戦の後継機の試作発注がまだ行われておらず、その他の戦闘機開発も遅々として進まない状況にあったことが海軍を焦らせたのかもしれない。試作発注の条件に、1年以内に1号機を完成させることという厳しい一項があった。この時点では川西、海軍共に、楽観視こそしていないもののさして困難な開発とは思っていなかったであろう。しかしこの後、開発は非常な茨の道を辿ることになるのである。

 話が少しあっちこっちに飛んでしまったかもしれない。まだあまり本筋に踏み込んでいない感もあるが、また次回に続けることにしたいと思う。