紫電二一型 〜旧日本海軍最後の名機〜 (3)

 もう少しで春休みが終わってしまうので鬱々としている。しかし日差しも日に日に春めいてきて、気温も日中は汗ばむほどに高くなってきた。いい時節である。今朝、皇居内堀沿いを自転車で巡っていたら、菜の花があたりに独特な香りを漂わせていた。

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 さて、引き続き紫電改の開発過程を追おう。

 十五試水上戦闘機(のちの「強風」)の陸上機改造案「一号局地戦闘機」の試作発注を海軍から受けた川西航空機だが、その開発は予想に反して困難を極めた。

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水上戦闘機「強風」(試作名:十五試水上戦闘機) 

出典:局地戦闘機紫電」一一甲型 『日本陸海軍機大百科』通号45  P.116 2011年6月15日発行 アシェット・コレクションズ・ジャパン

 まず、問題となったのが十五試水戦(以下強風)の胴体の太さであった。強風が搭載したエンジン(当時は発動機と呼ばれた)は三菱重工「火星」一三型(1460hp)であったが、これはかなり直径の大きな星形エンジンであり、これを収めるため強風の胴体は日本軍機の中でも異色の太さを持っていた。一方、一号局地戦闘機(以下一号局戦)では、性能向上のため当時最高性能と目されていた中島航空機「誉」二一型(1800~1900hp)に換装した。誉の直径は火星より160mm小さかったため、それに合わせてエンジンカウルも細く絞るべきだったが、開発を急ぐために機首周り胴体も強風のものを流用することとした結果カウルのサイズも同じものとなった。さらに、試作二号機以降においてはカウルの上下にエンジンオイル冷却空気用インテイクなどを増設したため、強風のものより太いカウルとなってしまった。これは空力的に非常なマイナスとなった。

 さらに翼にも問題があった。一号局戦は基本的に強風の機体を流用したため、主翼も強風と同じく中翼配置(胴体の真ん中あたりに主翼が付いている形式、下図参照)だった。以下少し専門的な話になるが、通常、中翼配置は主翼面上を流れる空気流と胴体との干渉がもっとも小さく、流れが乱れにくい特徴をもつ。しかしながら、強風・一号局戦の場合はうまくいかず、主翼と胴体の結合部で大きく流れが乱れ抵抗発生源となっていたようである。

 このあたりについてはあまり正確な文献を見つけることができずあやふやなのだが、主翼と胴体の干渉により流れが主翼後縁付近で大きく剥離したという説や、翼胴干渉ではなく採用された翼型に問題があったという説があるようだ。翼型については、強風・一号局戦に採用された翼型は層流翼の一種であり、東京帝大の谷一郎教授によって開発された「LB翼」というものであった(これは強風に使用するために、設計者の菊原氏が谷教授に頼んで開発してもらったものらしく、一説によるとLBというのはLight Blue(東大のスクールカラー・淡青)の頭文字であるらしい。)。この翼型が表面粗さの精度不足などにより水平巡航時にも主翼付け根後縁で大きな剥離を起こす特徴を持っていたという説もある。また、強風・一号局戦の主翼取付角は翼根で4°と大きく、これが影響して剥離特性が悪くなった可能性もある。

 原因はともかく(ともかくとか言ってはいけない、何か有力な情報をお持ちの方はぜひコメントをお願いしたい)、主翼と胴体の付け根で流れが乱れるので、主翼の付け根にフィレットと呼ばれる膨らんだ部分をつけて流れを整えなければならなかった。このフィレットは、低翼配置の機体にはほとんど付いているものなのだが、強風・一号局戦は中翼配置であるにもかかわらず低翼機よりも大きなフィレットをつけざるを得なかった。翼の付け根が大きく膨らんでいるのだから、結局大きな抵抗源になったことは想像に難くない。この大きなフィレットは戦地の搭乗員・整備員から「乾燥バナナ」「干しバナナ」と呼ばれていたそうである。

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飛行機の主翼配置(手書きで申し訳ありません…)

 翼の弊害はそれだけに止まらなかった。一号局戦も中翼配置にしたことによって地面と翼との距離が遠くなり、それに合わせて主脚の長さも長くしなければならなかったのである。

 当時の航空機は、現在の多くの機体のように機首に小さい脚、主翼の付け根部に主脚をもつ前輪式ではなく、主翼に長い主脚をつけ、機体尾部(垂直尾翼の下)に小さな尾輪をつける尾輪式を採用するものがほとんどだった(したがって尾輪式の飛行機では、下の「紫電一一型」の写真に示すように、地上では機首を上にあげた状態になる)。

 水上機である強風においては、海面と主翼の距離が長い方が、飛沫による腐食を防げるなどの理由で利があったが、陸上機になるとこれは問題だった。主脚の長さを長くすると、収納のための主翼内の切り欠きスペースも大きく取らざるを得なくなり翼の強度が低下する。また脚の重量も増加する。ゆえに、脚はできるだけ短いものとするのが望ましい。この対策として、川西技術陣が開発したのが伸縮式の主脚だった。脚を展開するときは長くし、収納するときは短くしてから収納するというもので、動作には油圧を用いた。38.5cmほど脚を収縮させる機構になっていたが、メカニズムが複雑で整備しにくい上、頻繁に故障を起こし戦地でも整備員を悩ませることになった。

 伸縮機構の他にも、脚が長く強度が不足していることに起因する着陸時の折損やブレーキの不調、伸縮時にロックが外れる不具合など、この脚には他にも様々な問題があり、機体の問題の中でももっとも深刻なものであったという。

 さらにこの長い主脚が胴体設計にも影響を及ぼす。強風の後部胴体は、垂直尾翼の手前あたりから胴体下面がかなり上方に切り上げられた形状をしている。この設計をそのまま流用すると、地上では長い主脚との相乗効果で機首が異常なほど上を向いてしまう。これは離陸性能や滑走時の前方視界に非常な悪影響を及ぼすため、一号局戦では胴体尾部に肉付けして機首の角度を小さくする改修が行われた(下の図参照)。この結果、一号局戦の胴体は全部から後部まで太いままの寸胴になり、空力的には満足のいくものではなくなってしまった。

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一号戦胴体尾部の改修 (再び手書きですみません…)

 また、武装として20mm機銃×4を装備したが、全てを主翼内に収めることができず片翼一丁ずつ主翼内、後の一丁ずつは両主翼下面にポッドを取り付けその中に装備することになった。この主翼下に突き出した機銃ポッドも抵抗を産み、なんとも不格好な出来になってしまった。

 

 それでもなんとか要求期限内に試作一号機の完成にこぎつけ、1942年12月31日には初飛行を迎えることができた。海軍は川西に対しさらに7機の増加試作機の製作を命じる。しかし、試験飛行が始まってからもトラブルは頻発した。上記のような機体の不具合が重なった結果、エンジン出力の割に機体性能が振るわないことが判明したのである。さらに、誉エンジンそのものにも故障が頻発し、追い討ちをかけるようにプロペラ(住友製)にも可回転やピッチ変更装置の故障などの不具合が起こり、一時は試験飛行も満足にできない状態に陥ってしまう。

 この惨状を打開すべく、川西航空機は一号局戦の改造案を海軍に提案する。エンジンやプロペラに関しては他社製品であるから、彼らの努力による改善を期待する他ないが、機体の欠陥は自社で解決しようとしたのである。この改造開発計画は1943年3月に海軍に承認され、川西は改めて「一号局地戦闘機改」の試作に取り掛かった。そしてこれが、一連の記事で取り上げようとしている「紫電改」の開発がスタートした瞬間であった。

 一号局地戦闘機改(以下一号局戦改)の試作は開始されたが、その配備はどんなに速やかに事が運んでも一号局戦の配備予定よりは1年ほど遅れることになる。すでに最前線では零戦が米軍新型機に対して劣勢に立たされていたこの時期、海軍は要求性能を満足していないながらも一号局戦をボツとすることはできず、一号局戦改の開発とは別に一号局戦自体の改良を進めつつ実戦配備することを決定した。20mm機銃×4は当時の日本軍機としては重武装であり、米軍機の厚い防弾装備に悩まされていた日本軍にとっては魅力的であったのだろう。こうして一号局戦は新たに「試製紫電」と命名され、川西航空機によって1943年8月より量産が開始されたのである。試製紫電はのちに「紫電一一型」と改名されて制式採用された。

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試製紫電 生産機のうちの一機、製造番号785 寸胴な胴体と、主翼と胴体日の丸マークの間の大きなフィレット、さらに主脚の伸縮部(主脚のカバーが付いていない部分)が確認できる。

出典:局地戦闘機紫電」一一甲型 『日本陸海軍機大百科』通号45  p.119 2011年6月15日発行 アシェット・コレクションズ・ジャパン

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紫電一一甲型 試製紫電をさらに改良した量産型 少し見えにくいが、主翼下に20mm機銃のポッドが確認できる。

出典:局地戦闘機紫電」一一甲型 『日本陸海軍機大百科』通号45 p.115,p.120 2011年6月15日発行 アシェット・コレクションズ・ジャパン

 紫電一一型の諸元を示そうと思ったが、疲れたのでやめる。検索していただくとたくさん出てくる。一つあげるとすれば、紫電一一甲型の最高速度は583km/hであり、川西の当初の試算648km/hを大きく下回っていた。当時の零戦の最新改良型である五二型の最高速度が565km/hであり、同時期に開発された米軍機F6F、F4Uがそれぞれ599km/h(高度5486m)、671km/h(高度6066m)であることを考えても優れた数字とは言えない。総合的に見て、紫電一一型は失敗作だったと考えていいだろう。

 ここまで見てくれば、「紫電改」は、「強風」を改造した「紫電一一型」をさらに改良して開発された機体だということがわかるだろう。しかし、紫電の失敗を経験した川西設計陣は、紫電改の開発にあたってもはや「改」とは呼べぬほどの設計変更を行った。次の記事からは、ようやく「紫電改」の開発段階に入っていくことができそうだ。

 

※追記:LB翼のLBは実際にLight Blueの略であるようだ。大学図書館蔵の谷一郎教授の発表された報告書に「LB(淡青)翼」という記述があったので、間違いないと思われる。
 

参考文献:

局地戦闘機紫電」一一甲型 『日本陸海軍機大百科』通号45 2011年6月15日発行 アシェット・コレクションズ・ジャパン

前間孝則 「零戦紫電改からホンダジェットまで 日本の名機をつくったサムライたち」2013年11月10日発行 さくら舎

李家賢一 「航空機設計法」 2017年6月30日発行 コロナ社