紫電二一型 〜旧日本海軍最後の名機〜 (4)

 この稿もいい加減長くなってしまっているが、書く過程でより詳しく調べることも多いので新しく知ることも多く、楽しいものだ。

 

 記事(3)でやっと「一号局地戦闘機改」の開発が始まったが、戦局は日に日に悪くなり、前線の零戦隊は米軍航空部隊相手に苦戦を強いられ続けていた(零戦の改良で忙しかったことや、新型局地戦闘機雷電」の開発の遅れ、さらにはそれによる零戦の正式な後継機「烈風」の開発開始の遅れなど様々な要因により、零戦のあとの新型戦闘機はなかなか出てこなかった。その結果、零戦は初飛行から3年以上経った戦争後期においても、主力戦闘機として米軍の新型機を相手に戦わなければならなかった)。この状況において、海軍が正式に後継主力機として開発を命じたわけではないものの、開発が比較的速やかに進んだ「紫電」シリーズの機体にかかる期待は大きかったのではないだろうか。

 

 川西航空機は、一号局戦改の試作開発にあたって小手先の改良によりなんとか性能を上げようとするのではなく、根本的に設計を洗い直す方法をとった。結果的に、その機体設計は紫電一一型のそれから一新されたものになる。

 

 その際たるものが胴体設計である。前記事で述べたように、紫電一一型の胴体は空力的な洗練を欠いた「寸胴」の胴体であり、その原因は強風の胴体をなるべくそのまま使おうとしたことにあった。強風に搭載されたエンジン「火星」一三型は、本来双発機用に開発されたものであるため、単発機に載せれば当然胴体は太くなる。これをそのまま紫電一一型に流用したことの非を悟った川西設計陣は、機首周りの直径を削るとともに、上下についていたキャブレター用・エンジンオイル冷却用のエアインテイクの形状を変更し、よりほっそりとした機首へと整形した。また胴体全体に対し、断面の左右上部を削ってより上下に細長い楕円形の断面に変え、それとともに上下の高さも減らしたため、紫電一一型よりもかなりスッキリとした胴体へと変貌を遂げた。機体後部を延長したこともこの印象に影響を与えているかもしれない。この延長部分を用いて、紫電一一型では垂直尾翼部分で止まっていたラダーを胴体下部まで延長した。また垂直尾翼の形状そのものも変更された。

 

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紫電一一型(紫電)(上側)と紫電二一型(紫電改)(下側)の機種周り比較。紫電改の方がよりスッキリしていることがわかる。(出典:[1])

胴体全体にわたる大幅な設計変更により、結局強風とは全く違った胴体形状を獲得したのである。

 

 胴体とならぶ大きな変更点が主翼であった。紫電一一型の中翼配置を低翼配置へと変更したのである。この変更により主翼と胴体の距離が短くなり、主脚の長さを短縮できた。紫電一一型で大きなトラブルの元となった、複雑な機構を持つ伸縮式主脚を廃止することができたのである。また、低翼配置への変更によりコックピットからの下方視界も改善された。

 しかし、低翼配置にしたことで、もともと大きかった主翼フィレットがさらに大きくなったという問題点もあった。低翼配置は中翼配置よりも主翼ー胴体の干渉が大きく、整流のためフィレットが必要になるので、紫電一一型で既にあったフィレットがさらに大きくなってしまったのも仕方ないことではあったかもしれない。ともかく、他機種と比較しても不自然に大きなフィレットがついており、外観上の特徴ともなっている。

 

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試製紫電改・試作6号機。低翼配置に変更された主翼付け根の大きなフィレットが確認できる。(出典:[1])

 さらに、紫電一一型では翼内に収納できず左右各1挺ずつは翼面下のポッドに収納していた20mm機銃を、一号局戦改では左右2挺ずつ計4挺全てを翼内に収納した。

 

 ここで、紫電改の最大の特徴の一つである機構、「自動空戦フラップ」について簡単にまとめておきたいと思う。

 そもそもフラップとは、主翼に付けられる動翼の一種であり、低速飛行時に翼面積を広げて揚力を増大させるために使われるものである。航空機の離陸・着陸など低速だが揚力確保が必要な場面で展開される。本来、機動性を上げるために使われるものではないが、戦争中のベテランパイロットの中にはフラップをドッグファイト中に使用して機動性を上げるという使い方をするものがいた。

 ドッグファイトにおいては、戦闘機は互いに互いの背後を取ろうと急旋回を繰り返す。旋回半径が小さいほうがより相手の後ろに回り込みやすく撃墜率も上がるが、旋回半径を小さくするためには速度を落とさなければならず、またより大きなGもかかる。Gがかかるということは、飛行機から見れば旋回の半径方向外向きに引っ張られるということだから、翼は水平定常飛行時よりも大きな揚力を生んでこの力に対抗しなければ、機体が旋回の半径方向外向きに引っ張られ旋回半径が大きくなってしまう。また、速度が落ちればそれだけ揚力も減少する(揚力は速度の2乗に比例する)ため、この点からも旋回中の飛行機はより大きな揚力を発生する必要がある。結論を述べれば、旋回半径を小さくする、すなわち「小回りをきかせる」ためには主翼はより大きな揚力を発生する必要がある、ということだ。

 フラップを使えば揚力が増大するため、ドッグファイト中に的確なフラップ操作を行えばより機動性を上げることができ、容易に敵機の背後をとることができた。操縦に慣れたベテランパイロットたちはこの感覚を体で覚え、旧来の手動操作のフラップを空戦中に的確に操作して機動性を高めた。しかし一方、速度が不十分なままフラップの角度を大きくすると失速の危険性がある上、そもそも操縦に余程慣れていないと空戦中のフラップ操作は難しい。パイロットは片手で操縦桿、もう片手でスロットルレバー、両足でラダーペダルの操作をする上、空戦中は周囲の様子に気を配ったり照準器で狙いをつけたりと非常に忙しく、普通のパイロットではとてもフラップ操作まで手がまわらない。

 この空戦中のフラップ操作を自動で行い、パイロットの労力を削らないまま機体の機動性を上げるための装備が自動空戦フラップだった。詳しい動作原理は紙面の都合で別の機会に譲ることとするが、簡単に仕組みをまとめてみる。まず、飛行中の圧力・速度をセンサ(ピトー管)によって計測し、その圧力変動によって自動空戦フラップ機構中の水銀柱の高さを調節する。水銀柱の中には電極が2つ入っており、水銀中の高さによってそれぞれ水銀に触れたり触れなかったりする。2つの電極はそれぞれ「フラップ上げ(収納状態)」「フラップ下げ(展開状態)」のスイッチになっており、それぞれの電極に水銀が触れると電流が流れてフラップが展開されたり収納されたりする。つまり、機体の飛行状態を圧力や速度によって判断し、その状態に最適な揚力を発生するように自動的にフラップを出したりしまったりする装置、というわけである。なおこの自動空戦フラップにはON/OFF機能があり、自動モードと手動モードを切り替えることができたようだ。ベテランパイロットの中には、スイッチをOFFにして慣れた手動モードでの飛行を選択する人もいたという。

 当時このような自動機構は海外にも類がなく、開発は難航した。水銀センサーの感度が悪かったり、フラップを駆動する油圧系への伝達に問題があったりと様々なトラブルが発生したが、川西技術陣の努力によって、一号局戦改の量産型、すなわち紫電改が量産され始める1944年末ごろには実用に耐えるものが完成していた。試作段階でこの機構が完成していたわけではなく、一号局戦改にこの機構が搭載されていたとは考えにくいが、この機構の搭載も紫電一一型からの改良点の一つとして試作計画に含まれていたことは間違いないだろう。

 

 また、設計変更のもう一つの目玉が生産性の向上であった。紫電一一型は部品点数が多く、生産に非常に手間がかかる機体だった。この点を憂慮した設計陣は一号局戦改の開発にあたって構造部品の整理・統合を徹底し、部品点数を大幅に削減した。紫電一一型の部品点数が約66,000個であったのに対して一号局戦改は約43,000個の部品からなっており、約2/3に減少した。

 

 以上のような再設計ともいえる大規模な改良の末、一号局戦改の試作一号機は1943年12月末にロールアウトした。開発開始からわずか10ヶ月での完成だった。新たに「試製紫電改」と命名された本機は、1944年元旦から試験を開始する。

 改良の成果は非常に大きく、「誉」二一型発動機がカタログ通りのスペックを発揮すれば(武器弾薬や艤装をフルに積んだ状態での数値ではないものの)最高速度は630km/hにも達することが確認された。これは紫電一一型より約50km/h速い数値である。また、重量も約240kg軽くなり、地上走行性能なども改善されるなど実用性も大幅に上がった。

 この結果を受けて、海軍は紫電一一型に代わり「試製紫電改」を主力戦闘機として採用することを決定し、川西に対して増加試作機8機の増産と量産体制への移行を命じた。しかし「試製紫電改」の実用化にはかなりの長期間を要し、生産が開始されたのは1944年11月、局地戦闘機紫電」二一型 [N1K2-J](通称:紫電改) として制式採用されたのは1945年1月であった。当然ながらこの量産型には、先に述べた自動空戦フラップが搭載されていた。そして同年2月より、記事(1)にも登場した第三四三海軍航空隊(二代目「剣」部隊)に実戦配備が開始された。海軍は三菱重工中島飛行機など各社の工場を初め、航空廠の工場も使った総計11,800機に達する量産計画を立てる。しかしながらこの時期、既にB-29や米海軍艦載機による本土空襲によって各地の軍用機生産工場は大きな被害を被りつつあり、量産は困難となってしまっていた。そして周知の通り、この年の8月15日に日本は敗戦を迎える。紫電改の実働期間は実にわずか5ヶ月ほどとなり、総生産機数も450機余りにとどまることとなった。(1)で紹介したような活躍があったものの、やはりその登場は遅すぎたのである。

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試製紫電改・試作6号機。紫電一一型と比べより洗練された胴体設計へと変更されている。(出典:[1])

 次回の記事で紫電改については最後になると思うが、さらなる改良案や米軍からの評価、紫電改にまつわるエピソードなどを紹介したいと思う。

 

参考文献:

 [1] 局地戦闘機紫電」二一型 ”紫電改” 『日本陸海軍機大百科』通号6号 2009年12月2日発行 アシェット・コレクションズ・ジャパン

[2] 前間孝則 「零戦紫電改からホンダジェットまで 日本の名機をつくったサムライたち」 2013年11月10日発行 さくら舎