紫電二一型 〜旧日本海軍最後の名機〜 (5) 最終

 卒業研究の研究室の選考で忙しい。やっぱりジェットエンジンとか、飛行機系に進みたいかなあと思う、宇宙系の研究も聞いててワクワクするし将来性も夢も宇宙の方があるような気もするんだけど……。修士の研究室も悩みどころではあるが、、、とりあえず院試に受からないと始まらないもんなあ、、

 

 授業も始まり、3年から参加してきたプロジェクトも最近また動きが活発になってきたようで(まだ今年度は参加できていないが)、忙しくなってくるのだろうか。研究等の兼ね合いでどのくらい講義を取れるのかよくわからずまだ様子見といったところだ。

 

 さて、前記事でようやく紫電改の開発の全貌を書くことができたが、ここでは全体の締めとして紫電改のさらなる改造案や米軍側の評価などを披露して終わりたいと思う。

 

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紫電二一甲型

 紫電二一型の生産は1944年11月から開始されたが、開発者である川西航空機はこの頃既に改良型の設計・試作にとりかかっていた。最初の小さな設計変更としては、二一型から水平尾翼の面積を13%減らし、爆弾の懸吊架(パイロン)を改良したものが二一甲型として制式採用され、紫電改の生産101号機目以降はこの二一甲型に切り替えられた。

 二一型・二一甲型武装は20mm機銃×4と重武装であり、単発戦闘機を相手にした場合には十分な火力を持っていた。しかし戦争末期にはB-29という超重装甲・重武装・高性能の重爆撃機が毎日のように本土に飛来し爆撃を敢行していたため、これに対する迎撃任務をこなせることも同時に求められた。これを考慮すると、紫電改といえど可能な限り武装を強化しておく必要があると考えられた。そこで、最初の改良型として考えられたのが、二一型(二一甲型)の機首を前方に15cm延長し、機首上部に13mm機銃2挺を追加装備するというものであった。正確にはエンジンの取り付け器具(エンジンマウント、発動機取り付け架)を15cm前方にずらし、空いたスペースに機銃の後部を入れ、銃身は機首の上部に配置してカウリングに発射口を設けたのである。また、燃料タンクの防弾性能の向上も図られ、内側に積層ゴムの袋を入れた防弾タンクに変更されている。試作開発時には「試製紫電改一」と呼ばれたこの改良型は、紫電三一型として制式採用され、紫電改の生産201号機以降は全てこの型に切り替わる予定だったようだ。実際には現場での生産の切り替えがうまくいかなかったのか、二一甲型の生産は敗戦時まで続いた。したがって三一型の生産機数がどの程度だったのか、正確なことは分かっていないようだ。

 また、三一型のエンジンを「誉」二一型から「誉」二三型に換装したのが紫電三二型(試作時呼称は「試製紫電改三」)であったが、「誉」二三型の生産が進まず、結局試作機2機が作られたのみで終わった。

 

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紫電三二型の試作機のうちの1機 カウル上部に13mm機銃の発射口があるのが確認できる。

 続いて計画されたのは、紫電改艦上戦闘機化だった。紫電改は元々陸上運用のみを想定し、任務も長距離の護衛などは想定せず敵機の迎撃を主眼とした局地戦闘機として開発されたが、艦上戦闘機である零戦の後継機「烈風」の開発が進まない中、海軍は紫電改艦上戦闘機化を川西に命じる。これを受けて開発されたのが「試製紫電改二」である。艦上戦闘機には、狭い航空母艦上で運用するために陸上機にはない装備をいくつか有するが、「試製紫電改二」は紫電三一型の機体にこれらの艦上用装備を取り付けたものとなった。したがって基本設計はほとんど同じである。変更点としては着艦フック(機体尾部に付けられたフックであり、航空母艦に着陸する際、航空機はこのフックを空母の甲板に張られているワイヤーに引っ掛けて強制的に機体を減速・停止させる。この着艦方法は現在でも変わっていない)を取り付け、着艦時の衝撃に耐えるよう尾部の構造を強化する、その他艦上用装備を取り付ける、などがなされたようだ。

 この試作機は2機が1944年秋にロールアウトし、11月に竣工したばかりの空母「信濃」(大和型戦艦の3番艦、当初は戦艦として起工したが建造中に空母への改造が決定)を用いて艦上運用試験を行なった。結果は良好だったようだが、そうこうするうちに戦局が逼迫し海軍が空母を運用する能力を喪失したため、艦上戦闘機そのものが不要になってしまったため計画は止まってしまった。

 なお、紫電三二型を艦上機に改造した「試製紫電改四」も計画・試作されたようだが、詳細はわからない。

 

 より飛行性能を向上させることを狙った改良案も計画された。特に速度性能の点で日本軍機は欧米の機体に大きく遅れをとっていた。例えば、紫電二一甲型の最高速度が594km/h(高度5600m)であるのに対し、同時期に開発作業が行われていたアメリカのF8Fは689km/h(高度5730m)、P-51(H型)は763km/h(高度6919m)と大幅に紫電改を上回っている(一般に高高度であるほど速度は増加するので、本来は同じ高度で比較するべきであるが)。また、日本の物資・人手不足は深刻であり、エンジンやターボチャージャーなどの整備状況が悪かったことやエンジンオイル・燃料の質が悪かったこともこの差の原因の一つであろう。ともかく、速度性能の向上は日本軍にとって喫緊の課題だったのである。

 速度向上のための改良案として「試製紫電改五」が計画された。目玉となる改良ポイントはエンジンを三菱「ハ四三」一一型に換装したことである。これに伴い、操縦席より前側の胴体とエンジンカウルが再設計され、三一型以降装備された機首の13mm機銃は廃止となった。このエンジンは「烈風」のエンジンにも選定されており、「誉」より200hpの出力アップが見込まれたため、この改良案はかなり期待されていたようだ。しかし、試作機の完成直前に川西の工場が爆撃によって試作機もろとも破壊され、紫電二五型と呼称された本型は初飛行を行うことすらできなかった。

 

 その他、操縦席を後ろに伸ばし複座型とした練習機型「仮称紫電改練習機」や、エンジンを「誉」の最新型である「誉」四四型に換装した「仮称紫電性能向上型」、アルミニウム合金不足に伴い機体構造を鋼材製とした「紫電改鋼製型」なども計画されたが、いずれも計画のみで終戦を迎えることとなった。

 

 このように数多の改良型が計画されたにもかかわらず、量産されたのは二一型、二一甲型、三一型の3機種のみであり、その総生産機数も450機足らずで終わった。やはり登場時期が遅すぎたのだ。結果はともあれ、紫電改日本海軍が正式に主力戦闘機と位置付けた最後の機体であり、日本軍機の中では最高性能を誇る部類に属する機体であったと言えるだろう。重武装と自動空戦フラップによる高い運動性能、さらに頑丈さを誇る紫電改は、実際のところ性能が欧米戦闘機と比べて優れていると言い難いところはあるものの、現場の搭乗員たちからは高い評価を得ていた。F6FやF4U、さらにはP-51を相手にしても互角に戦うことができた、と証言する元搭乗員もいる。

 

 以下の話は出所がはっきりしないものが多く、僕もあまり信用していないのであるが、逸話として面白いので、また「そうだったらいいなあ」という願望も込めて、記しておく。繰り返すがおそらく真に正当な評価とは言い難いと考えられる。

 終戦後、紫電改は他の陸海軍機とともにアメリカ本土に4機が接収され、そのうち3機を使って性能評価試験が行われた。この時、燃料はオクタン価の高い良質なものを用い、整備不良であった部品をアメリカ製の物に交換して行われたようである。この試験の結果、「高度6000mでP-51と同程度の速度を発揮した」と言われ、それに従って紫電改の最高速度を680km/h程度とする説がある。

 また、米軍の戦後のテスト結果をまとめた資料としてTAIC Reportというものがある。TAICは Technical Air Intelligence Center (米海軍航空情報部)の略である。1945年5月19日付の報告書によると、「George11」という機体の最高速度が20,000ftで353kntであったと記録されている(国立国会図書館のオンラインサービスでこの資料は閲覧できるので、下にリンクを貼っておく)。換算すると、高度6000mで最高速度654km/h程度である。「George」というのは連合軍が戦時中に日本軍機に付けていたコードネームの一つで、紫電および紫電改に付けられたものであった。これを見ると、紫電一一型の最高速度が654km/hであったということが読み取れる。しかし、いくら高オクタン価のガソリンを使い、整備状況も格段によくなったとはいえ紫電「改」になる前の機体にそんな速度が出せたとは考えにくいし、そもそも紫電アメリカに渡った後に全速飛行試験をしていない、という説もあり、真偽のほどは定かではない。

dl.ndl.go.jp

 さらに逸話として、戦後まもない頃、接収された紫電改の機体を米軍に引き渡すため、元搭乗員がこれらの機体を操縦して長崎県大村基地から横須賀まで空輸していたが、フルスロットルにして最高速度を出したところ、エスコート役としてついていた米軍のF4Uが引き離され追いつけなかったというものがある。この時の燃料はやはり米軍の良質なものを使用していたようだ。もし上で評価された速度が本当なら、この逸話にもうなずける。実際のところどうであったかは分からないが。

 また、アメリカに輸送されてから模擬空戦を行なったところ、アメリカ軍のどの機体も紫電改に勝てなかった、という話もある。

 

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1945年10月16日朝、接収された機体を大村基地から横須賀に空輸する際の発進前の一コマ。整備員・パイロットはすべて戦中の第三四三海軍航空隊員である。紫電二一甲型主翼下面の国籍マークが米軍のものになっているのが確認できる。

 ともあれ、おそらくのところ速度性能においては欧米諸国の機体に最後まで追いつく事はできなかったというのが事実であろう。空中戦での性能はカタログスペックのみで決まるものではないので、敵機と実際にどの程度戦えたのかということについてはこれらの記録のみで語る事はできないが。

 

 現在、現存する紫電改の機体は4機(すべて二一甲型)であり、そのうち1機は記事(1) で紹介したものである。今もその機体は愛媛県南宇和郡愛南町で翼を休めている。残る3機はテストのために戦後アメリカに渡ったものであるが、そのうち1機はスミソニアン国立航空宇宙博物館の別館(スティーヴン・F・ウドヴァーヘイジー・センター)にある。その機体の解説にはこうあるという。

「この飛行機は、第二次世界大戦で使われた最優秀の”万能”戦闘機の一つであることが立証されている。しかし、B-29に対する有効な迎撃機としては、高空性能が不十分であった。」

 

参考文献:[1] 局地戦闘機紫電」二一型 "紫電改"『日本陸海軍機大百科』通号33号 2010年12月15日発行 アシェット・コレクションズ・ジャパン (写真はすべて[1]出典)

[2] 前間 孝則 「零戦紫電改からホンダジェットまで 日本の名機をつくったサムライたち」 2013年11月10日発行 さくら舎